JK_Tomorrow-Maker’s blog

ビジネスや経済などのニュースや日常の気づきを出発点に、「科学(技術)、心(アート)、モノ(サービス)、デザイン」という4象限を操りながら、自由に発想していきます。発想や着眼の手助けや、思考の自由度拡大の糧になれば、何よりです。

「論破」から

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3点に注目したい。
 1.自己主張や自分の内面満足は、議論ではない。
 2.議論を議論たらしめるためには、参加者に所定の力・姿勢が要求される
 3.議論になっていない議論モドキが90%以上あるだろう
代表関連記事 東洋経済ONLINE 2019/02/25 15:00
 https://toyokeizai.net/articles/-/266552
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A 論破するとか、論破される。このような次元で「議論」のころを捉えている時点で、本来的な議論の真の力を引き出すことは、まずできない。

 

B 議論とは何だろうか。議論という名前を借りて、実のところ、自分の地位を相手に示したり、自分の能力という優位性に浸っているようでは、何もわかっていないと言わざるを得ない。

 

A 相手の発言の欠点をただただ指摘し、理詰めすることなど、簡単である。しかし、ほとんど意味がない。

 

B 上辺の情報交換程度に収まり、衝突の「しょ」の字もなく、責任感もち互いに説明責任を要求できないようでは、その場を開く意味はほとんどない。

 

A そもそも、A or NOTという解が存在する時点で、議論をする必要はない。

 

B 議論とは何か。議論を議論たらしめるための、参加者に求められる力とは何か。今回は、この点について論じる気はない。ただ、問だけをなげかけたい。

 

A 日々の業務の中に溶け込んでいる「議論と呼ばれるもの」は、本当に議論だろうか。議論する必要があるのだろうか。議論になっているのだろうか。

 

B 議論とは何か? 何のために存在するのだろうか。その存在目的を達成するためには、議論参加者には、どのような力や姿勢が求められるのだろうか。

 

A 非常にシンプルな疑問であるが、ここを本気で考えたか否かで、議論から導かれる単位アプトプットの質も量も大きく変わる。 

 

 

/2018.02.24 JK